信長の小姓としてその名も高い森蘭丸(乱丸)。美濃金山城は蘭丸も城主となった城だ。 この金山城はいわゆる「金山越(かねやまごし)」で移築されて国宝犬山城となった。
しかしなぜか昭和30年代の解体修理報告書で、「金山越」は否定されてしまう。
ところが木材伐採年代の特定など、最新の調査研究によって、報告書の間違いがわかってきた。 蘭丸の城が国宝犬山城になった「金山越」の真相とは。
蘭丸の金山城移築説。まずこちらの動画を御覧ください
蘭丸の城、美濃金山城とは
蘭丸はここで生まれた
木曽川上流、岐阜県可児市兼山の南部にそびえる標高277mの古城山。斎藤道三の養子、斎藤大納言正義が天文6年(1537)、ここに烏峰城を築城しました。
織田信長の美濃攻めで永禄8年(1565)、森可成(よしなり)に与えられ、金山城と名を変えました。森可成の後は、子の森長可、森蘭丸(乱丸・成利)、森忠政が順に城主となり、35年ほど森一族の城でした。
蘭丸はこの城で生まれ育ったとされ、天正10年(1582)に兄・長可に替わって城主となります。しかしすぐに本能寺の変で討ち死。やがて城主は弟の忠政となりました。
美濃金山の地は、日本の東西を結ぶ主要道であった「東山道筋」を抑えることのできる場所であり、金山城はそのための重要地点でした。
蘭丸の死後、犬山城として移築
関ヶ原の戦いの直前である慶長5年(1600)2月1日、森忠政が徳川家康から信州川中島に転封されると、金山城は石川光吉に与えられました。しかし関ケ原合戦の前の戦略により、金山城は破城されることに。
当時、城に用いられた資材は貴重品だったので、城の移築はよく行われており、金山城の天守や門などの資材は木曽川下流へ流されて犬山に移築されました。これを「金山越」と呼び、犬山・兼山双方で事実として語り継がれてきました。
約2万平方メートルもある金山城の城跡には、石垣などが取り壊された痕跡が見られ、本丸のあった部分には建物礎石が残っています。廃棄された瓦もみつかっており、これらは森忠政による整備と考えられています。
犬山・兼山両地域の古記録にも
多数残される「金山越」
天守だけでなく櫓や門も移築された
金山城の地元、可児市兼山町に伝わる史料には「金山越」が書かれています。金山越では、天守だけでなく櫓や門、家臣の屋敷までが犬山へ移されました。
例えば内田門は犬山城廃城にともなって犬山市内の瑞泉寺(ずいせんじ)に移され現存しています。金山越を証明する貴重な遺構で、ほかに瑞泉寺の境内には金山城から直接移築されたと伝わる城門が山門として現存しています。
国宝犬山城は金山城の移築である
当初の国宝指定も移築としている
国宝犬山城は日本最古の天守として昭和10(1035)年に国宝指定され、昭和27(1952)年に再指定されました。
当時は移築ということで国宝になりました。ところが文化庁は現在「移築ではなく慶長6(1601)年に小笠原吉次が現在地に新築した」という説を支持しています。
これは昭和36(1961)年から40(1965)年に行われた解体修理の調査で移築跡がないと「金山越」が否定されたこと、また、犬山城が創建されたという天文6(1537)年当時にこうした城がないことがわかってきたからです。
60年前に書かれた疑惑の修理報告書
昭和36年(1961年)から行われた解体修理工事の報告書は本当に正しいのでしょうか。
地域史研究の第一人者である横山住雄氏からは疑問視され、医師の髙木鋼太郎氏により「金山・犬山城双方に特徴がある地下1階から2階の穴倉部分の形状が一致する」として、時を経て、信頼できるものではなくなっています。
報告書には明らかな間違いもある
昭和40(1965)年に発刊された『国宝犬山城天守修理工事報告書』に書かれた「犬山城天守が天文6(1537)年に現在地に創建された」とする説は、今日では完全に否定されています。そして金山城天守台と犬山城天守台の形状は、みごとに一致し、歴史的背景や位置関係を考えると、犬山・兼山双方で伝承されてきた金山越により、移築されたと考えることこそが、最も合理的な結論です。
犬山城が今日に見られる姿となったのは、金山越によるもの、と考えることができます。蘭丸の森一族が1585年に築いたといわれる美濃金山城は、尾張犬山の地で受け継がれ、後世まで木曽川の水面にその威容を映してきたのです。
そして令和3年3月29日に犬山城の建築材調査報告で、柱や梁が1585年から3年間の間に伐採された木で作られていることがわかりました。まさに金山城の築年と合致し、またひとつ、金山越が裏付けられたといえそうです。
年表
通説
1537年 (天文6年) |
斎藤大納言が兼山(金山)に烏峰城を築城 |
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織田信長の叔父である織田信康によって犬山城築城 | |
1565年 (永禄8年) |
信長の東濃侵攻。烏峰城が森可成に与えられ、金山城と名を変える |
1570年 (元亀元年) |
森可成が戦死、13歳の森長可が金山城主に |
1582年 (天正10年) |
森長可の弟、蘭丸が金山城主に 本能寺の変で蘭丸戦死 |
1584年 (天正12年) |
小牧・長久手の戦いで森長可が戦死 森忠政が金山城主に |
1600年 (慶長5年) |
忠政が信濃川中島に転封 犬山城主石川光吉が金山城主に |
関ヶ原の戦いの後、松平忠頼が金山城の在番に | |
1601年 (慶長6年) |
犬山城主小笠原吉次によって金山城が破却される |
移築説
1537年 (天文6年) |
斎藤大納言が兼山(金山)に烏峰城を築城 |
---|---|
犬山城の場所には、まだ城は存在せず | |
1565年 (永禄8年) |
信長の東濃侵攻。烏峰城が森可成に与えられ、金山城と名を変える |
1570年 (元亀元年) |
森可成が戦死、13歳の森長可が金山城主に |
1582年 (天正10年) |
森長可の弟、蘭丸が金山城主に 本能寺の変で蘭丸戦死 |
1584年 (天正12年) |
小牧長久手の戦いで森長可が戦死 森忠政が金山城主に |
1585年~ (天正13年) |
森忠政が金山城に桐紋瓦の天守を新築 城域が整備される |
1600年 (慶長5年) |
忠政が信濃川中島に転封 犬山城主石川光吉が所領とする |
金山城は破却され、犬山城として移築 |
犬山城が
移築だと言えるこれだけの理由
■犬山城、金山城跡で「桐の紋」の瓦が出土した
これまでの発掘調査によって犬山城天守北側で美濃金山城から出土したものと同様の桐紋瓦が出土しています。桐紋は誰でも使えるものではありませんが、美濃金山城主だった森忠政は天正15(1587)年に豊臣秀吉から桐紋使用を許されています。したがってこの頃に美濃金山城が建てられていたとしたら、桐紋瓦が使われていた可能性が高そうです。しかし犬山城主で桐紋を使った人はいませんから、桐紋瓦が犬山城で出たということは、美濃金山城から移築したもの、としか考えられません。
■犬山城と金山城それぞれの土台が一致
発掘調査で報告されている美濃金山城測量図面の主郭部に、犬山城の天守土台部を重ねてみるとピタリと合います。また犬山城では入り口にあたる穴蔵部分が不自然に二階建てになっていますが(写真は同寸模型を作って図面に乗せたもの)、その一階部分と美濃金山城の穴蔵部分は形が大変似ています。穴倉部分が不自然に二階建てとなっている犬山城は、移築と考えれば納得できます。また犬山城の北西にある断崖に向けて出っ張った部分は今も用途がわかりませんが、美濃金山城にあったものなら、本丸御殿方向への通用門の名残と考えれば納得できます。
■天守台の石垣
犬山城の天守が天文6年(1537年)に建てられたという説は、今では明確に間違いとされています。天文年間に作られた他の織田の城には、石垣は使われていないからです。石垣の上に天守が建てられたのは天正10年(1582)代以降のことです。犬山城の石垣も調査によって天正10年(1582)代から1600年の関ヶ原合戦頃のものと考えられています。美濃金山城では森忠政が天正13年~慶長5年(1585~1598)の間に石垣の上に天守を建てましたから、犬山城はそれが移転されたものと考えれば年代的には合致します。
■証拠写真不在
城の木材が移築であれば、木材を固定する釘の穴は、釘を打って、抜いて、また打つので複数なければなりませんが、昭和の解体修理では一箇所しかなかったと報告され、移築は否定されました。ところが、その証拠となる写真が残っていません。築後400年以上経過した古材のわかりにくい釘穴が、一つしかないとはっきり写された写真は残っていないのです。本当に釘穴は一つだけだったのでしょうか。
- ■不可解な「金山越・金山城からの移築説」の扱い(すこし詳しく解説)
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犬山城の天守が国宝に指定されたのは1935(昭和10)年でした。第二次大戦後、法改正を受けて1952(昭和27)年に改めて国宝に指定されています。その頃、天守は木曽川を約20km遡ったところにあった金山城の移築とされていました。
現在、国宝犬山城は「1537(天文6)年、織田信長の叔父である織田信康によって創建された」とされ、現存する日本最古の天守として現在の地に1537年からあったと案内看板に書かれています。
一方、国宝指定時の根拠では「天守が建てられたのは1599(慶長4)年頃。その天守は1537年に作られた金山城のもので、家康の命で1599(慶長4)年、ここに移築された。その折に望楼のある現在の姿に改造された。しかし初期の天守の面影を多分に残している」とされていました。
なぜそれぞれの言い分が異なるのでしょう。
実は1961~65年にかけて行われた解体修理の際に調査が行われ、移築の痕跡がみつからず、「1537年以降ここに建っている」との修理工事報告書が作成され、移築が否定されたからです。国宝指定時の見解とは異なるこの報告書は、当時の日本建築史の権威で、名古屋工業大学教授であった城戸久氏の手によるものでした。以後、金山越は否定されることになります。
しかし文化庁は、2005(平成17)年に監修した『国宝15建造物3』という本で、移築跡はないという移築はなかったという城戸報告書を支持しつつも「1601(慶長6)年につくられ、1618(元和4)年に3、4階を増築したもの」としています。現在の研究では1563(永禄6)年築の小牧山城にすら瓦葺きの建物はまだなかったとされているのに、1537年にこのような天守が造られているはずもないからです。そのため、築年を1601年としたのは合点がいくところです。ただそれ以降、文化庁は国宝指定時の根拠を変更する見解を公式には出してはいません。
- ■報告書の問題点から「移築はあった」「金山越は正しい」の声が
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「移築はなかった」とされたことに疑問を持って長年研究してきたのが、金山城があった岐阜県可児市に住む医師、高木鋼太郎氏です。高木氏は「60年あまり前の修理工事報告書こそ誤っており、犬山城は金山城からの移築だ」と断言します。地元の地誌や江戸時代からの伝承だけに頼るのではなく、建築工学などさまざまな方向から検証した結果として、移築であったと主張しています。そして、報告書の問題点を指摘しました。
「移設なら組立用の番号が木材に2つ以上書いてあるべきなのに1つしかない」「間違えて組まれたり、新しい木材に取り替えられたりしていない」「解体した時にできるはずの釘を抜いた穴が残っていない」ことなどから、報告書は「移築ではない」と結論づけています。
しかし高木氏は「今や歴史の常識として、この様式の建物が1537年に建てられるはずがない。この点でまず報告書は間違っている」「したがって移築前に金山城にあった天守は、天正年間の後半、1585年ごろに建てられた築10年ほどの新しい建物」「それを解体して移築しただけだから、番号はそのまま使われ、木材も取り替えられなかった」と反論します。また釘穴に関してもはっきりした写真が報告書に残されおらず証拠が残っていないと指摘します。
また昭和30年代当時の復元工事は石垣を積み直してコンクリートで固めるなど、今では考えられないずさんなもので、築年など今では明らかな間違いもあるため、移築説を再検討すべき時ではないかとします。
2017(平成29)年に出された犬山市教育委員会による犬山城総合調査報告書の発掘調査報告では、犬山城のある敷地に1500年代には遺構が見いだせなかった(城はなかったのでは?)とされています。また、犬山城天守北側からは桐紋瓦が出土しています。歴代犬山城主で桐紋を使った者はいませんが、金山城主だった森忠政は豊臣秀吉から桐紋使用を許されており、「桐紋の瓦が出土したということこそ、金山からの移築であることを証明している」と高木氏は強調します。
さらに高木氏が、2006(平成18)年の金山城跡発掘調査報告書にある金山城主郭部測量図面の上に、縮尺を合わせた犬山城模型を作って重ねてみたところ、土台位置ばかりでなく出入り口などもピタリと合ったとのこと。特に犬山城では石垣が高いため不自然な2階建てになっている穴蔵(城の入り口)部分は、石垣の低い金山城ならごく自然な形状に収まるといいます。さらに、なぜあるのかわからなかった犬山城の西北の出っ張り部分も、金山城御殿建物への出入り口だと考えればつじつまが合うとしています。
移築が行われたとした場合の時代背景についても高木氏は「徳川家康が1600(慶長5)年の関ケ原合戦前に、当時犬山を所領としていた石川光吉を味方とすべく、金山の森忠政を信州川中島へ国替えさせてその城を石川に与え、さらに犬山へ移築させることした。東山道を抑える役目の金山の城を無くし、犬山を味方にして東山道の通行を確保することは、家康にとって関ケ原合戦のための重要な戦略だった」と考えています。これは家康の書状からも明らかだといいます。
- ■犬山市は金山越を否定せず「いろいろな説があるとしかいえない」
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高木氏に限らず、濃尾の中世史研究では第一人者といえる横山住雄氏も、すでに1987(昭和62)年の『国宝犬山城図録』で城戸氏による修理工事報告書に疑問を呈しています。そこでは新しい形状の石垣の上に、それより古い製材方法の木材を使った建物が建っているので、それこそ移築の証拠ではないかとしています。
横山氏は製材方法から石垣より建物が古いとしましたが、2021(令和3)年3月に、城の柱や梁が1585年からの3年間に伐採された木でであることが、年輪年代法という手法で確認されました。石垣は1600年頃のものとされ、そこの上に1585年の木材でできた城があるのは、金山城の移築と考えるしかありません。
昭和の修理工事報告書が正しいのか確認するためには、もう一度解体してみるしかありませんが、それは難しいでしょう。ただ、現在までの城郭研究では新しい見方も出てきていますから、報告書を絶対視せず、もう一度考えてみてもいいのではないでしょうか。犬山市も、決して移築説を全否定はしておらず「いろいろな説があるとしか言えない」との見解を示しています。